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【実例】私はこんな風に生け花の免状を取りました

【実例】私はこんな風に生け花の免状を取りました

私、管理人は、生け花草月流の免状を持っています。
私は、町の個人教室で生け花を習い始め、自分が花の先生になる夢なども特に無く、そんなに強い意欲を持って免状を取り始めた者ではありません。生け花は単なる楽しみであって、生け花の先生業を他人事だと思っていたような人間です。

要するに、私は生け花人口の中では一番多いタイプである、
「それほど専門性を求めて生け花をやってるわけではない生徒」
の一人でした。
このような、一番普通のタイプの生徒が、免状を取っていった状況や気持ちを、書ける範囲でリアルに書いてみようと思います。

この記事が参考になる方は……

この記事が参考になると思われる方は、

「みんなは、どういうタイミングで免状をとってるんだろう?」
と思っている方や、
「免状は、取っても取らなくてもいいんだけど、どうしようか」
と思っている方、
「免状は、取らなきゃいけないもの?」
と思っている方など、免状取得に関する疑問や迷いのある方には、なにかの参考になることもあるかと思います。

一個人の経験談ですので、どなたにも有益な情報になるかどうかは分かりません。また、いけばな流派によっては、私のような考え方ではドライすぎると思われる場合もあるかもしれません。以上のことを了解の上、お読みいただきたいと思います。

最初の頃は子どもだったので、免状関係のことは親まかせだった

私は、10歳のときに草月流に入門しました。10歳ということは、小学生です。当然、レッスン料も花代も、親にお金を出してもらっていました。もちろん、免状代も親持ちです。

私の遠い記憶によれば、子供の頃は、先生に
「上のお免状を取りましょうか?」
と言われたら、自分では何も考えず、親に聞いて返事をしていました。
記憶の中にある限りでは、うちの親は、免状申請の話をすると、毎回機械的に「いいよ」と言っていました。

「いいよ」と言われるものですから、こちらも何の疑問も持たずに「それが普通なんだろう」と思っていました。
今思うと、親(主に母の判断だったと思います)にしてみれば、下の方の料金の安い免状だし、せっかく習わせているのだし、「取れるものなら取っておこう」という考えでお金を出してくれていたのだと思います。
でも、もしも、免状料が母にとって「もったいない」と思う金額だったとしたら、うちは免状を取ってくれなかったのではないかと思います。毎週のお稽古だけで十分です、ということになったのではないでしょうか。
うちの場合は、私も母も、
「生け花の先生になることを目的として、稽古に通っているわけじゃない」
と思っていたので、無理してまで資格を取る理由はありませんでしたから。(私が、「花の先生になる可能性」を初めて考えたのは二十歳をすぎてからでした)

「師範を取れたらいいな」と思ったのは、高校生くらいの頃

上の項に書いたように、私は先生になりたくて生け花を習っていたのではありません。花を生けて、そのとき楽しければそれで良い、と思って教室に通っていました。そして、「もう楽しくないや」と思う日が来たら、そのときはやめてしまおうと思っていました。

このように、私はまったく長期的展望を持たずに稽古に通っていたのです。(この考え方は、別に今でも「間違っている」とは思っていません)
ところが、本人には長期的展望が無かったのに、教えてくれていた先生は、ちゃんと先のことを考えていてくださったようで、
「高校卒業くらいのタイミングで、師範になれるようにしよう」
と言ってくださっていました。
そう言われると、こちらは無知な子どもですから、「そういうものか」と思います。しかも、高校卒業のときなら、まだ免状代は親持ちでしょうから、自分のお財布から出ていくお金のことは考えなくても良いのです。
つまり、師範を取ることによって、自分には何のリスクも無いわけで、取ることをためらう理由もありません。

よって私は、「師範取れたらいいなあ」ということを、きわめて気楽に考えていました。
今思うと、生け花を教えようという目的も無いのに、「師範取れたらいいな」などと言うのはおかしなことです。必要無いものを、「欲しい」と言っているわけですから。
しかし、リスクが一つも無いために、私は「損するわけじゃないんだから貰っておこう」という心理で、師範免状を手に入れようとしていました。

もしも母が、
「師範免状のお金は自分で出しなさい」
と言っていたとしたら、私は自分では取らなかっただろうと思います。師範の免状は、5桁の金額になりますので、高校生のお小遣いから、自分は5桁を出さなかっただろうと思うのです。多分、その数年後に社会人となり、給料をもらえる身分になるときまで、私は師範の申請を保留にしていたことでしょう。

また、師範になるために試験を受けるとか、相当面倒な手続きがあったとしたら(実際には無いですが)、多分取らなかっただろうと思います。私は、「ノーリスク」でなければ、師範など欲しくはなかったのです。

自分から上の免状を欲しがる生徒ではなかった

何もかも親任せで花を習っていた私も、社会人になってからは、さすがに自分ですべてのお金を払うようになりました。
私の場合、先生に積極的に次の免状申請をお願いするタイプではなく、先生に「上の免状を申請しますか?」と言われてから、初めて「どうしようかな」と考えるタイプでした。
つまり、先生が「上の免状を取りますか?」と言わなければ、私は永遠に上の級に進まずに満足していたのかもしれません。

しかし、先生はちょうど良いペースで免状申請をすすめてくれたので、私は非常に自然に、それに従っていきました。
私は、積極的に上の免状を欲しがりはしませんでしたが、「もう、免状は欲しくない」とも思っていませんでした。
自分にとって、自然なペースで取っていくなら、それも楽しみの一つ、という感じでした。

でも、免状料が、自分のお財布にとって「自然」ではない額だと思ったら、多分、先生のすすめを断って、免状を取らなかっただろうと思います。
私は今までに二箇所の稽古場に通いましたが、どちらの稽古場も、「取らなくていいです」と言い出せない環境ではありませんでしたので、先生からのプレッシャーで取ってしまっうことは無かったと思います。
免状を取らないことを選択するのも、その生徒さんの権利であり、私の先生たちは、その権利を無視する人ではありませんでした。
免状を取らないことは、恥ではないです。
それも、ごくごく自然な考えだと思います。

師範になったときに、雅号をもらった

生け花の稽古場では、「名前をもらう(雅号を名乗れるようになる)」ことをモチベーションにして習っている方もいます。一昔前までは、「雅号をもらう」=「正式に勉強して、プロの腕になった人」として、一目置かれる要素の一つになったからでしょう。

現在でも、雅号を付けてもらうと、「いかにも華道家っぽくなった」として、なんだかうれしくなるという人の方が多いかもしれません。
私の場合、雅号はあっても無くても良かったのですが、最初にいけばなの楽しさを教えてくれた先生が、私のために考えてくれた名前なので、そういう意味では大切にしています。
しかし、現在では、雅号は華道家の必須アイテムではなくなったかな……とも思います。流の外で、雅号じゃないから信用されないということは、すでに無いです。
雅号が必ずしも「いけばなの腕が立つ人」の証明ではないことを、世間も悟っているのではないでしょうか。

最終的に、「一級師範にはなろう」と思っていた

上記のように、私は、そんなに積極的に免状を欲しがった生徒ではありません。
でも、大人になってからは、
「いつか、一級師範にはなりたいものだ」
と思うようになっていました。そう思うようになった大きな理由は、私が指導を開始したために、自分が免状を出す立場にいずれはなることが確定されたからです。
それでも、いつまでになりたいとか、早くなりたいとは思いませんでしたし、先生に「私は一級師範になりたいのだ」というアピールもしませんでした。

しかし私は、勉強していれば、遅かれ早かれ自分の望みはかなうと知っていました。
勉強する気があって、一級師範を取る気もある人が、取れずに終わることなど無いということが分かっていました。
今までどおり、先生の判断を信じて、「申請しましょうか?」と言われる免状を申請していけば、いずれ自分は一級師範になれるのです。だとすれば、特別なアクションを起こす必要はないわけです。

参考までに、なぜ私が「一級師範」を欲しいと思ったかと言うと、「一級師範」という免状が、いけばなで社会と関わろうとするときに、ほんの小さな力しかないけれども、「小さな小さな武器となり得る」ことを知ったからです。
たとえば、会社稽古にいけばなの先生を迎えようというときや、カルチャーセンターの講師募集などで、「一級の先生」と「二級の先生」では大きな差がつくのです。
「二級師範の先生」というのは、流の外部の人にも、「一番上の位まで行ってない人だ」ということが明白に分かります。実際には、位は二級師範でも、鋏を持ったら神業の人だって、きっといるはずだと思いますが、その人は世間から見たら、「一級師範の先生に比べたら、下の人だ」ということになりますよね。

私は、世の中に向けて「二級以下ではないです」とアピールする機会がいつか訪れるかもしれない可能性に備えるために、「一級師範にはなろう」と思ったのです。
つまり、そのときには、私はすでにいけばなで報酬をもらうことを考え始めていました。
実を言えば、私のいけばなの初報酬は、高校三年生のときにすでに発生していました(指導料ではなく、制作料でした)。自分の教室の開講と、外部での報酬発生が無かったら、私は「一級師範が欲しい」という具体的な目標を描かなかったかもしれません。

「顧問」の免状を取ったタイミングは……

上の項に書いた「一級師範」の夢を、私はとくに急ぐことも無く、順調に果たしました。
まったく自分の思った通りに、「先生の判断を信じて、自然なペースで昇級していったら一級師範になれた」のです。

草月流の方ならご存知と思いますが、草月の「一級師範」は、4種類に分かれています。
4種類の位を下から書くと、
「一級師範総務」

「一級師範常任総務」

「一級師範顧問」

「一級師範理事」
です。

私は、「一級」と名が付けば、それは「小さな小さな武器」になると思っていたので、「一級師範総務」で打ち止めにしても、かまわないと言えばかまわないような状況でした。
しかし、「一級師範総務」になった頃には、開講時よりもわずかながらお弟子さんが増えていて、さらに上の免状を取ることは、今後の自分と、自分の生徒の利益になり得るものだと考えました。

そこで、私は先生のすすめるタイミングで、「一級師範常任総務」になりました。そのときには、まだ二十代でしたので、もしも教えていなかったとしたら、この資格は取らなかったかもしれません。仮に教えていなかったとすると、
「指導を始めたら、そのときに取るかどうか考えよう」
と思ったのではないでしょうか。

その先にある「顧問」は、「常任総務」よりも、もっともっと敷居が高いものでした。大体、免状の料金が違いますし、「顧問」からは試験があるのです。「顧問」は、明らかに、「特別な位の免状」でした。「常任総務」を取ったばかりのタイミングでは、私は「ぜひとも次の顧問を取ろう」とは思いませんでした。それは、自分にとっては次元が違うものに見え、それを取ることにリアリティすら感じないくらいでした。

私は、自分にとって「顧問」が非現実的に見えるうちは、取るつもりはありませんでした。「別次元だ」という思いが無くなり、リアルなものに見えてくるまで、手を出さないことに決めていました。その結果、一生取らずに終わってしまっても、それはそれでいいと思っていました。

こう思っていたせいで、私は顧問の受験資格を得ても、何年も受験申請をしませんでした。
申請を決断したのは、「顧問」を取ることが自分にとってはメリットであると見極め、顧問取得を本当にリアルに考えられるようになったときでした。もしも、「メリットは、あるかどうか分からない」という状況だったら、私は未だに「常任総務」のままだったのではないかと思います。

「理事」の免状を取ったタイミングは……

「顧問」を取った私は、最上位の資格である「理事」の免状は、「さすがに無くてもいいのでは」と思っていました。
現在、私は「理事」を持っていますが、正直言いまして、取らなかったとしても何も困ることは無かったと思います(少なくとも、これを書いている時点では)。

20代の頃から気付いていたのですが、私は「上の資格を取る」ことが、モチベーションにはならないのです。恐らく、世の多くの人にとっては、それはモチベーションになり得るのでしょう。そうでなければ、あれほど嬉々として免状申請する人がたくさんいることの説明がつきません。

どうしても理事になるんだ……と頑張ることによって、作品の質が上がっていくのであれば、ただ目指すだけでも価値ある行動だと思いますが、私はそうではないので、「理事」を取ることに、はなはだ淡白でした。
淡白ではありましたが、その分クールに
「取ることにメリットはあるのか」
「デメリットよりも、完全にメリットの方が大きいと言えるか」
という現実的なことを考えていました。

その考えを突き詰めていって、ある日私は
「理事取得は、教室を持ち、本部の講座に通い、花展にも出品し、花で報酬を得ている自分にはメリットになる」
と決断しました。
そして、私は「理事」を取得しました。これは、私にとっては「生け花が仕事である」からできたことです。「趣味」だけでは、どんなに生け花が好きだとしても、免状に創作のモチベーションを見出せない自分は、「理事まではいらない……」と思っていたことでしょう。
ただし、私が時間とお金が有り余っている身分であったとしたら、大して深く考えもせずに、もっとスピーディーに顧問も理事も取ったと思います。その理事免状が無駄になったとしても別に困ることもないのであれば、きっとそうしたでしょう。

「自分の場合は、理事まで取ったのは無駄ではなかった」と思う

私は、生け花を習うことは、「免状取りを頑張る」ことではないと思います。
免状を取ったらうまくなる、というのであれば、私だって免状が欲しいですよ。でも、そうではないのですから。免状は、「うまくなったから、その証明に書類を出してあげます」という、一種の事後承認の書類です。

しかし、上記のように思っている私が、「理事免状が無駄ではなかった」と言い切れるところに、免状取得の意義があるのです。
私にとって、「理事免状」は、自分の営業を強化するツールになり得ます。決して、強力な武器とも言えないのですが、それでも、費やした「先行投資額」を回収する力は確実にありました。理事の上の免状は無いので、免状に関して言えば、すでに私にはデメリットは何もありません。
最上位の免状を飾りにしない気概ならば、最初から持っています。自分は、「理事を取ってよかった」のです。

ただし、私の「理事を取ってよかった」のは、結果論です。誰でも、「取って良かった」と言えるはずだと、保証することはできません。単純に考えるなら、「理事まで取ることはないだろう」という人の方が多いはずです。

このコラムは、理事取得の正否を求めようとして書いたものではありません。私の場合はこうだったという、一例の提示にすぎません。個人の体験ですが、リアルなところを書きましたので、免状取得に関して情報を探している方、悩みや迷いを持っている方の参考になればと思います。
ポジティブな方に、「そうか、最高位の免状を取って良かったのか。後に続こう!」と思っていただけると、草月流師範としてはうれしいのですが、読んだ方には自由な受け取り方をしていただいて結構です。


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